近江湖北 <第1番 大箕山 菅山寺> |
●御詠歌
かんこうの さんごうゆかし たいきざん
きくもあおぐも ともにとうとし
寛平元年(889)菅原道真公45才の時、宇多天皇の命を受けこの寺に国家の隆昌と皇位の安泰を祈願されました。この際に勅許を得て三院、四十九坊を建立。五智如来を安置して寺号を大箕山菅山寺と改められました。
菅山寺縁起によると、後嵯峨天皇の皇妃、陰明門院は、当山にて仏道に帰依し山内の景家殿で大乗経の写経や詩歌を詠じて日々を過ごされたが58才の生涯をこの地で終えられました。
境内には陰明門院と薄幸の我が子、白子皇子の墓があります。
当山の専暁上人は亀山天皇の文永年中に、遠く唐の国に渡り、諸山を巡歴し修行を積み十年余りの辛苦の末、三密の秘法を体得、後宇多天皇の建治元年(1275)帰国、菅山寺へ帰山しました。帰朝にあたり、宋版一切経七千余卷を持ち帰り菅山寺の経堂に納めました。
寺伝によると道真は幼名を陰陽丸といい、余呉湖畔に住んでいた桐畑太夫の子として生まれました。6才の時、菅山寺長老・信寂坊の尊元阿闍梨のもとへ勉学修行のために入りました。五年後の斉衡二年((855)京都より、陰陽丸の叔父・菅原是善卿がこの地を訪れ、桐畑太夫と尊元和尚と是善卿とで相談のうえ非凡の才能を国のために役立たせるため、是善卿の養子として京都へ上がらせることになりました。陰陽丸11才の時でした。
学問の神として崇められる菅原道真を祀る天満宮は全国に多いが、ここ近江天満宮は道真幼少勉学の地であり、また右大臣として菅山寺を復興した縁の地として近年、合格祈願の人たちが増えています。
坂口区の表参道には積善館があり、菅山寺の仏像などを安置しています。
滋賀県伊香郡余呉町坂口576