Pilgrim 東西南北巡礼記 :和泉西国巡礼
2018-02-23T15:14:54+09:00
ro-shin
関西の神社・仏閣・古墳など巡っています。
Excite Blog
和泉西国第33番 西方山極楽密寺(真言宗善通寺派)
http://pilgrimari.exblog.jp/6981174/
2008-04-06T23:40:00+09:00
2018-02-23T15:00:49+09:00
2008-04-06T23:37:20+09:00
ro-shin
和泉西国巡礼
<札所本尊>
聖観世音菩薩
<御詠歌>
月も日も西へ西へと極楽寺
蓮の台(うてな)の浄土なりけり
天平十二年((730)行基菩薩が畿内四十九院建立の折、この地に一草庵を建立し、薬師如来を本尊とし安置されたのが開基と伝えられる。薬師信仰がこの地に根付き人々の心に浸透した頃、文治元年(1185)俊乗房重源が留錫して、民衆の薬師信仰の厚さに感銘を受け、一草庵から伽藍・坊舎を有する寺院に発展拡張させたと言う。栄枯盛衰を繰り返しつつ江戸期に入り宝暦五年(1755)紀州徳川家の祈祷処となった。現存する三葉葵の御紋からも繁栄した当時が偲ばれる。現在は昭和60年に薬師堂を再建し、中央に薬師三尊、後方に十二神将を従え、正面右側に如意輪観世音菩薩、左側に不動明王を安置している。又、昭和62年、観音堂を修築し、十一面観世音菩薩(7尺)を本尊とし秘仏として聖観世音菩薩を奉安しています。
大阪府泉南市馬場1-16-1 ☎072-484-2468
参考掲載 和泉西国観音霊場巡拝案内
みなさん、ありがとうございました。和泉西国巡礼満願しました。
このblogをごらんいただいた方にも満願のご利益がありますように祈っています。
これからもよろしくお願いします。]]>
和泉西国 第32番 円通山観音寺(臨済宗妙心寺派)
http://pilgrimari.exblog.jp/6977398/
2008-04-05T23:37:00+09:00
2018-02-23T15:02:10+09:00
2008-04-05T23:38:00+09:00
ro-shin
和泉西国巡礼
<札所本尊>
聖観世音菩薩
<御詠歌>
極楽へ導きたまえ観音寺
運ぶ歩みの誠なりけり
当寺の立つ浜辺は、昔、石工が存在していて石棺など地名となった箱作りが行なわれて早くから活発な往来があった所と言われ、寺はもと天台宗とも伝えられるが確証はない。過去帳によると室町時代末期、まさに群雄割拠の戦乱期を迎える明応六年丁巳(1497)枯木和尚大禅師により開山されており、この当時、中興初代となったようであるが禅師の詳細についてはわからない。以来元禄年間この地の住民、山中庄兵衞の篤志もあったと伝えられるがいく度かの盛衰を繰り返しながら明治の廃仏棄釈の運動にも耐えることが出来たと言う。貞享年間、すでに泉州32番の札所とされており、約10年後の元禄九年、この地方の寺社改帳によると臨済宗妙心寺末と記録され和泉はもとより、とくに紀州和歌山方面から西国巡礼の出来ない人の地方霊場として参拝が続けられ、現在もなお同じ妙心寺末として厳しく法燈は護持されている。
大阪府阪南市箱作1391 ☎072-476-2037
参考掲載 和泉西国観音霊場巡拝案内]]>
和泉西国 第31番 躑躅山林昌寺(真言宗御室派)
http://pilgrimari.exblog.jp/6973811/
2008-04-04T22:25:00+09:00
2018-02-23T15:03:22+09:00
2008-04-04T22:25:28+09:00
ro-shin
和泉西国巡礼
<札所本尊>
如意輪観世音菩薩
<御詠歌>
躑躅咲く山の岩陰夕映えて
おくらはよその名のみなりけり
開創は聖武天皇。聖武天皇の勅願寺として天平年間、行基菩薩畿内49院の一院として建立。往古はこの寺域に三院六坊を有する鎮護国家を祈念する一大伽藍であったと言われるが、当寺もまた天正年間織田氏南逆征伐の兵火により、ことごとく廃燼に帰した。現在の諸堂宇は江戸時代初期から中期にかけて建立されたものである。かってこの地に鉱泉が湧出していたので山号を温泉山菩提院岡寺と称されたが平安時代第73代堀川天皇が当山に行幸され、山つつじの見事なのに自ら山号を躑躅とし、寺号を法林繁昌の勝地として林昌と改められ躑躅山林昌寺と勅号されたという。当寺は京都仁和寺を総本山とする真言宗御室派に属し、岡大師とも称されるがごとく泉州における弘法大師信仰のいち拠点でもある。観音堂は西国三十三所の本尊が、また約1時間で巡拝できる寺内山中の四国八十八ヶ所とともに近隣の信仰を集める。
大阪府泉南市信達岡中395 ☎072-483-2705
参考掲載 和泉西国観音霊場巡拝案内
つつじの咲く頃に是非訪れたいと思う。]]>
和泉西国 第30番 平野山 長楽寺(真言宗犬鳴派)
http://pilgrimari.exblog.jp/6970571/
2008-04-03T22:51:00+09:00
2018-02-23T15:04:58+09:00
2008-04-03T22:51:25+09:00
ro-shin
和泉西国巡礼
<札所本尊>
十一面観世音菩薩
<御詠歌>
平野山躑躅が岡を見渡せば
さながら花の台(うてな)なりけり
天平年間、僧行基の開創と伝えられる。中世、大門、金堂、大日堂、白山社などのほか、六坊を有する真言寺院であったが、天正十三年豊臣秀吉の根来寺攻めで焼失、江戸時代に入り、観音堂と庫裡を再建、後、庫裡は老朽化のため昭和47年に改築され今日に至っている。山内の大日堂跡と思われるあたりから平安鎌倉期にかけてみられる焼けた布目瓦が出土し、わずかに往古の歴史を偲ぶにすぎない。
本尊十一面観音は長く秘仏とされ、ご開帳法要の賑わいにことよせ出店が並び、娯楽の少なかった近郷住民の楽しみの一つでもあったといわれる。同じ堂内には歓喜天や、善女龍王などの尊像もまつられ、密教寺院として聖天信仰の面影もかいま見ることが出来る。山号平野山は和泉山脈の北方の一部で名前どおり山上は平地になり、ここからの展望は遠く淡路島も見渡せ眺望佳の地であったが、地域開発の波にその姿も変貌してしまった。
大阪府阪南市鳥取中725
☎072-472-1409
参考掲載
和泉西国観音霊場巡拝案内]]>
和泉西国 第29番 一乗山金熊寺(きんゆうじ)
http://pilgrimari.exblog.jp/6966266/
2008-04-02T20:08:00+09:00
2018-02-23T15:06:17+09:00
2008-04-02T20:04:32+09:00
ro-shin
和泉西国巡礼
<札所本尊>
如意輪観世音菩薩
<御詠歌>
迷わじな道は睦音聞きぬれど
小金の寺に参る嬉しさ
開基は天武天皇白鳳年間、役行者小角と伝えられる。金熊寺の寺名は金峯、熊野の両神を勧請したことによる。金熊寺の建つ金熊寺山に壘址があり、往古は鎮守として鎮守国家の宏大な堂塔があったと言われ、当時の塔頭一乗山観音院が金熊寺として現在に至っている。後鳥羽院御幸記によれば1200年代の鎌倉初期、この金熊権現に参拝したと伝えられその格式も偲ばれるのであるが、末期の正安元年(1299)永仁の徳政令では焼き討ちにあうなどの難を受けることになった。本尊は被災を免れることが出来その奇縁は土地の人々を感嘆さすことになり、守護佛としていっそう讃仰されたという。当時の人々にとっても考えられないような不可思議な霊験だったのであろう。神仏混淆の本地垂迹説を地でいくように、寺の隣に信達神社の境内が続き周囲の丘は金熊寺梅園として知られる。
大阪府泉南市信達金熊寺813 ☎072-482-3536
参考掲載 和泉西国観音霊場巡拝案内]]>
和泉西国 第28番 金泉山長慶寺(真言宗泉涌寺派)
http://pilgrimari.exblog.jp/6963171/
2008-04-01T21:54:00+09:00
2018-02-23T15:08:23+09:00
2008-04-01T21:54:32+09:00
ro-shin
和泉西国巡礼
<札所本尊>
如意輪観世音菩薩
<御詠歌>
嬉しやな人の命は長慶寺
信達の里によろず世の春
神亀年間(724年頃)行基菩薩により開創され、金泉山慈昌院海会宮寺と呼ばれた。書恵寺が海会寺となり、大苗代村(信達大苗代)海会宮池の傍にあったと言われ白鳳様式の古瓦や和同開珎など出土、奈良法隆寺と同じ建築様式と推測されている。
天正六年(1578)織田信長の兵火により伽藍をほとんど焼失したが観音堂はまぬがれた。その後慶長年間(1600年頃)豊臣秀吉の命により、大野主馬治房は観音堂と本尊の如意輪観世音菩薩を現在地へ移し改めて当時の年号を逆にして長慶寺と称した。
徳川幕府の寺社制作と強い観音信仰に支えられ岸和田城主岡部公歴代の祈願所となり、山上の地の利を生かした眺望の絶佳により寺運は隆昌したという。その景観は徳川幕府、湯島聖堂の儒者林羅山が吟じ、元禄期和泉の史家石橋直之も長慶寺八景として、葛城暮雪、淡路落日などの八景を賞しており、明治以後荒廃したが近時再び復興への機運にある。
大阪府泉南市信達市場815 ☎072-483-2692
参考掲載 和泉西国観音霊場巡拝案内]]>
和泉西国 客番 大井堰御坊慈眼院(真言宗御室派)
http://pilgrimari.exblog.jp/6958737/
2008-03-31T18:52:00+09:00
2018-02-23T15:09:15+09:00
2008-03-31T18:52:01+09:00
ro-shin
和泉西国巡礼
<札所本尊>
千手観世音菩薩
<御詠歌>
有り難や井堰の水の別れ口
桜のむせぶ所なりけり
(金堂)
(多宝塔 国宝)
開創は白鳳二年(673)覚豪阿闍梨、天武天皇勅願寺--願成就寺無辺光院として造営される。その後、嵯峨天皇弘仁六年(815)弘法大師二年の間御留錫、多宝塔、金堂などを建立、堂宇は完備され大井堰御坊として鎮護国家の道場とされた。創建以来皇室との関係が深く、南北朝の兵火(1353)に遭うも同年、後村上天皇の勅令により修築、また豊臣秀吉の南紀事変に多宝塔、金堂を除いて全焼したが豊臣秀吉の命により慶長7(1602)再興され順次七堂伽藍は整ったと言う。江戸時代に入り、寛文年間岸和田岡部候はその由緒により大営繕の沙汰を下しこの落慶に仁和寺総法務宮性承親王より慈眼院の号を賜り、以来慈眼院と称して現在を迎えた。長い歴史を護持され続けた国宝多宝塔は今、日本三名塔(ほかに石山寺、高野山三昧院)の一つとして、その簡素で気品にあふれた典雅な姿態を保ち、境内は国の史跡に指定されている。
大阪府泉佐野市日根野626 ☎072-467-0092
参考掲載 和泉西国観音霊場巡拝案内]]>
和泉西国 第27番珀谷山 吉祥園寺(真言宗御室派)
http://pilgrimari.exblog.jp/6956520/
2008-03-31T00:11:00+09:00
2018-02-23T15:10:29+09:00
2008-03-31T00:11:52+09:00
ro-shin
和泉西国巡礼
札所本尊
十一面観世音菩薩
<御詠歌>
眺めやり西の海面静かにて
弘誓の舟に漕ぎの浦波
開基を確かめる資料はない。本尊は十一面観音であるが、寺号「吉祥園寺」が示すとおり吉祥天女と関わり深い。吉祥天女像を槇尾山施福寺(和泉西国1番)より和泉国日根郡近義郷吉祥院、後の吉祥園寺に遷すと平安初期の「日本霊異記」誌されてあり当時から創建されていたようである。
後鳥羽院熊野御幸に際し「建仁元年(1201)十月十七日吉祥園寺に入り御昼食」」とあり、それなりの格式もあったに違いない。地元ではむしろ「王子の羅漢さん」としてかって法要には縁日のような賑わいを見せ近隣の老若男女が足を運んだと言われる。その秘仏羅漢像(十六幅)は寺宝として今も春の羅漢会に開帳されると言う。当寺に安置される十一面観音菩薩についても見(御)出川(泉佐野市との境)をのぼる観世音の尊影を拝す修行僧の霊験が語り伝えられているのもひとつには信仰の原点であろう。
大阪府貝塚市王子703 ☎072-423-1654
参考掲載 和泉西国観音霊場巡拝案内]]>
和泉西国 第26番 龍谷山 水間寺(天台宗)
http://pilgrimari.exblog.jp/6952446/
2008-03-29T23:16:00+09:00
2018-02-23T15:11:39+09:00
2008-03-29T23:16:04+09:00
ro-shin
和泉西国巡礼
<札所本尊>
聖観世音菩薩
<御詠歌>
水上は清き流れの水間寺
願う心の底は濁らじ
当寺は、第四十五代聖武天皇の勅願所で高僧行基の開創であります。ご本尊は身丈一寸八分の厄除聖観世音菩薩で、天平十六年天皇42才の時、ご病床につかれた折り、都奈良の南西の地に霊験あらたかな観音出現のお告げを感得され、その勅命を受けた行基が当地を求めて滝のべで龍に化身、滝壺に投ぜられた仙人から授けられたものであります。
このように代々天皇の御崇敬深い寺であり、最盛期には七堂及び僧坊百三十余を有する大伽藍が建立されていましたが天正十三年豊臣秀吉の根来寺攻略の際に兵火にあい、その後徳川時代に岸和田城主岡部美濃守がこの名刹を惜しんで再建され、現在の姿になっています。和泉葛城山からの清き流れの川畔にその姿を映し、春は桜に秋は紅葉、ことに秋の味覚みかん狩りをかねての参拝は、年々増し四季を通じてにぎわい、香煙のたえるまもなく現在に至っております。約700年前、この地の豪農の娘、お夏の一心の祈りに勅使清十郎との恋を遂げさせたといわれる愛染明王をまつる愛染堂があります。
清十郎は室津の造り酒屋の息子で、何不自由もなく育った美青年。訳あって19歳の時、姫路本町の米問屋但馬屋に奉公に出ますが、いつしかそこの美しい娘・お夏と恋仲に。しかし、二人の恋は許されず、思い余って駆け落ちしますが捕えられ、清十郎は盗みのぬれぎぬで二十五歳の若さで処刑されてしまいます。お夏は悲しみのあまり発狂し、清十郎の姿を求めて町をさまよい歩くのでした。 この物語は、井原西鶴、近松門左衛門の小説や戯曲などで全国に広く知られるようになりました。
大阪府貝塚市水間638 ☎072-446-1355
参考掲載 和泉西国観音霊場巡拝案内]]>
和泉西国 第25番 慈眼山 孝恩寺(浄土宗)
http://pilgrimari.exblog.jp/6948526/
2008-03-28T21:39:00+09:00
2018-02-23T15:12:48+09:00
2008-03-28T21:39:36+09:00
ro-shin
和泉西国巡礼
<札所本尊>
十一面観世音菩薩
<御詠歌>
手折りつつ手向けの花の数添えて
木積みの寺に春は更けゆく
開基は天平の高僧行基菩薩と伝えられ、畿内四十九院建立の時、用材をこの地に集めた故に木積の名が起こったと言われる。(四十九院建立の発願は経典による)当寺も足利期山名、大内両氏の乱、豊臣秀吉の根来寺攻略などにまきこまれ一堂宇が焼け残り、池中に投じて難を避けた諸仏を再び安置して現存されることになった。昔は古佛堂とも称され、今は釘を使わない建物-釘無堂としてこの周辺では知られる。鎌倉時代後期(1200年代)飛騨国、番匠の作と言われ当時の貴重な木造建造物として新国宝とされている。堂内に安置されている仏像十九体も平安期の作と言われ、観世音菩薩立像、釈迦如来座像、薬師如来立像など長い歳月を護持され重要文化財として尊ばれる。近在の蕎麦原川に面した一隅に貞和四年(1348)年刻の五輪塔があり、南朝を正統としたころ、北朝の年号が見えるのも考えさせる。
大阪府貝塚市木積798 ☎072-446-2360
参考掲載 和泉西国観音霊場巡拝案内]]>
和泉西国 第24番 海見山 成願寺(浄土宗)
http://pilgrimari.exblog.jp/6944742/
2008-03-27T20:27:00+09:00
2018-02-23T15:13:59+09:00
2008-03-27T20:27:29+09:00
ro-shin
和泉西国巡礼
札所本尊
聖観世音菩薩
<御詠歌>
煩悩の夢も眠りも覚めぬべし
谷の巌に響く滝寺
「成願寺は宇山の原にあり、もと真言宗にして遍照光院法眼真空成願法師の開基なり。号して成願寺と言う」。(大阪府全志)
室町時代、織田今川両氏の群雄割拠(群雄が各地に勢力を張り対立すること。室町末期の状態)の頃、永禄二年(1559)春木西福寺の住職であった重蓮社燈誉良然和尚が中興して浄土宗に転宗したと伝えられる。貞享年間、泉州三十三所の記録では第24番札所として古義真言宗布引山満願寺という寺が意賀美神社の鳥居前にあったといわれ、牛滝山大威徳寺の末寺で開基などは定かではないが、宮寺として阿間ヶ滝・土生滝両村に尊崇されたという。その満願寺は明治六年維新百般変革に際し、無縁無檀社寺合併の旨が達せられ、成願寺に合併することを堺県令に届け出て、聖観世音菩薩は成願寺観音堂に安置、護持されている。
大阪府岸和田市土生滝町771 ☎072-427-3874
参考掲載 和泉西国観音霊場巡拝案内]]>
和泉西国 第23番 竜臥山久米田寺(高野山真言宗)
http://pilgrimari.exblog.jp/6942004/
2008-03-26T23:05:00+09:00
2018-02-23T15:14:54+09:00
2008-03-26T23:05:02+09:00
ro-shin
和泉西国巡礼
<札所本尊>
千手観世音菩薩
<御詠歌>
名に聞きしこの池水を久米田寺の
閼伽(あか)の滴に月ぞ映れり
(山門 二層瓦葺き)
天平時代の高僧行基開創の四十九院の中の一寺院として知られ、久米田池と関連が深い。弘法大師空海が讃岐香川県に万濃池を築いたように行基菩薩は和泉に灌漑池として久米田池を築いた。神亀二年(724)着工して天平十年完成で十四年の歳月をかけ、水田三百町がうるおうこととなる。
(久米田池)山門前に展開する久米田池は周囲約4k、水面積623万7千平方メートルの壮大な池
竣工後、池の傍らに橘諸兄公(たちばなもろえ 葛城王)を大檀越(寄進者)として釈迦、普賢文殊の三尊を安置、これが竜臥山隆池院久米田寺である。
そのころの寺領は「東は角河の流れ、春木の峯ならびに上の津川の東峯、西は松村の登路ならびに延年ヶ峯、八坂切上げを、そして北は熊野詣大道を限りに、この四至内の田畑地利を挙げて仏聖の灯油住僧の依怙となさしむ」とあり、往時の盛大さを伺い見ることができる。
(金堂)
(大師堂)
(開山堂)
開創当時、聖武天皇や光明皇后も参拝された名刹であったが長い歳月に荒廃、その後、弘安五年(1282)後宇田院の官符により勅願寺となり法燈は再び光彩を放つが南北朝(1300年代)兵乱、永禄年間(1560年前後)の三好、畠山両氏の久米田山決戦に巻き込まれる。堂宇は廃燼に帰しながらも寺宝、星曼荼羅図、仁王会曼荼羅、楠木家文書、久米田寺文庫など重要文化財として南北朝、足利期の考証に貴重なものが少なくない。
大阪府岸和田市池尻町934 ☎072-445-9261
参考掲載 和泉西国観音巡拝案内 パンフレット]]>
和泉西国 第22番 大悲山朝光寺(高野山真言宗)
http://pilgrimari.exblog.jp/6937807/
2008-03-25T20:40:00+09:00
2008-03-25T20:50:04+09:00
2008-03-25T20:40:23+09:00
ro-shin
和泉西国巡礼
<札所本尊>
十一面観世音菩薩
<御詠歌>
流れゆく積川の水に袖濡れて
二世安泰の縁を結ばん
開基を知る史料は見られないが、貞享年間(1680年代)泉州三十三所第22番として積川在、真言宗朝光寺観音堂として記され、異説として同じ積川の長楽寺の名も見える。天保十四年(1843)の寺社覚には朝光寺嶋ノ坊、泉州記には朝光寺僧坊の寺名が見られそれのちなんだ「堂ヶ峰」「南ノ坊」などの小字名が残っているといわれる。「積川大明神は当国五社のうち第二の社で、正一位積川大明神の古額に紀貫之の筆とあり、神主積川は神職武職を兼任勤し、数万石を領した三十六士の一人」といわれ、朝光寺はむしろ積川神社の神宮寺として、かってはこの山間に隠然とした寺格を示していたようである。積川神社
明治初年の廃仏棄釈により、この寺も例にもれず衰微し、久米田寺華厳院に預けられることになったが、現在、積川神社の反対側、狭山橋を渡ったところにささやかな観音堂と庫裡が土地の人々によって守られている。
大阪府岸和田市積川町313 連絡先☎072-445-0261(華厳院)
参考掲載 和泉西国観音霊場巡拝案内
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和泉西国 第21番 阿弥陀山 泉州松尾寺(天台宗)
http://pilgrimari.exblog.jp/6934215/
2008-03-24T20:14:52+09:00
2008-03-24T20:14:52+09:00
2008-03-24T20:14:52+09:00
ro-shin
和泉西国巡礼
<札所本尊>
如意輪観世音菩薩
<御詠歌>
ありがたやまことの弥陀の国ならん
風も涼しき松の尾の寺
白鳳元年(672)役行者優婆塞の開山といわれ、修行中楠の霊木をもって如意輪観世音菩薩の尊像を刻んで安置したところに始まる。後、越前の泰澄大師が入山、諸堂を建立、平安時代仁明天皇により勅願寺となり、鎮護国家の道場として、その輪郭を備えたという。天正九年(1581)織田信長により全山焼き討ちにされ廃燼に帰したが、当時の塔頭日輪院の老僧長瑜により、寺宝、古文書など堺に難を避け、現存する端緒ともなった。まもなく豊臣氏の頃、秀頼公は片桐旦元(かたぎりかつもと)を晋請奉行として四天王寺の阿弥陀堂(鎌倉期の建造)を移して金堂(文化財)とし、徳川時代も御朱印を下され当寺は厚く遇されて現在を迎えることになった。山門、鐘楼に続いて金堂、念仏堂、寿老人堂、三天堂、不動堂などの堂宇がならび、首堂は一の谷合戦に戦死した首墓として知られ、陀羅尼経、曼荼羅などの重要文化財の寺宝をはじめ、境内の大楠、山桃も天然記念物として珍重される。
大阪府和泉市松尾寺町2168 ☎0725054-0914
参考掲載 和泉西国観音霊場巡拝案内
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和泉西国 第20番 赤田山 観音寺(浄土宗)
http://pilgrimari.exblog.jp/6930424/
2008-03-23T20:28:00+09:00
2008-03-23T20:28:01+09:00
2008-03-23T20:28:01+09:00
ro-shin
和泉西国巡礼
<札所本尊>
十一面千手観世音菩薩
<御詠歌>
この寺の仏の道のいと長く
引かれて参る弥陀の浄土へ
古来、和泉観音寺村といい、観音寺の寺号が村や字の名となっているが、開創当時の寺暦をを知る史料は今のところない。
寺の背後が、かっては観音寺山になっており、大和を中心に仏教文化がさかえた天平年間、この地へ藤原氏が城を築き興亡の歳月を繰り返しながら井上某氏に至り廃城されたというから、奈良時代すでに建立されていたのかもしれない。
その間、南北朝の頃には、北畠顕家が観音寺城に陣をとり、北軍の襲来に備えたといわれる。貞享年間、すでに和泉西国二十番札所浄土宗観音寺として、本尊十一面観世音菩薩は土地の人々から賛仰されていた。現在の本堂は宝暦年間(1750年代)建立されたといわれ、いく度かの改宗が加えられながら今日を迎えたようである。
大阪府和泉市観音寺町128<連絡先>☎0725-41-2303
参考掲載 和泉観音霊場巡拝案内
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