古代の社会福祉の先駆者
延暦十三年(794)の10月、都は長岡京から平安京に移されましたが平安遷都の実質的な推進者は和気清麻呂でした。それは清麻呂が亡くなったおりの薨伝(こうでん)に長岡の新京が10年を経ても完成をみず、厖大な費用がかかりすぎているとして桓武天皇に葛野への遷都を「ひそかに奉す」と述べられているのにうかがわれます。(『日本書紀』)
その和気清麻呂の姉が和気広虫です。和気氏の家伝ではその祖先を磐梨別(いわなしわけ)と伝えていますが、和気氏は備前の東部・美作(みまさか)の東南部の有力な豪族でした。広虫と清麻呂の父は和気乎麻呂(あまろ)で、広虫は天平末年ないしは天平勝宝二年(750)のころに、葛木戸主(かつらぎのへぬし)と結婚しました。しかし天平宝字四年(760)のころに戸主がこの世を去って、広虫は30歳あまりの若さで未亡人となりました。

葛木戸主夫妻は社会の福祉につとめ、平城京内の孤児を集めて養育し、天平勝宝八年(756)には成人となった男9人女1人を養子としました。天平宝字三年(759)の3月19日に、葛木戸主が東大寺正倉院の薬物を施薬院に分与することを請願した文書が、現在も正倉院文書の中にあります。
広虫は孝謙上皇の側近の女官になり、上皇が仏門に帰依したおりには、出家して法均尼となります。天平宝字八年(764)には藤原仲麻呂の乱で孤児となった83人を保育し、葛木首(かつらぎのおび)と姓(かばね)を与えられたその全員を養子にしました。そればかりではありません。仲麻呂の乱に連座した375人の助命減刑を上申して、その願いが認められています。

古代において孤児の養育にあたった人物は他にもありますが、広虫のように長期にわたっていく度も孤児などの救済にあたった例はきわめてまれです。広虫は延暦十八年(799)の正月20日、70歳をもってこの世を去りましたが、その生涯は社会の福祉や保育の先駆者ともいうべき慈悲の人生でした。

清麻呂の学識と勇気ある行動の背景に姉の力が大きな光を与えています。広虫の薨伝(こうでん)には「貞順にして節操かわることなく、こと清麻呂の語中にあらわる」とあり、広虫の逝去後一ヶ月のちにあの世へ旅立った清麻呂の薨伝には、桓武天皇の「いまだかって法均(広虫)、他人の過を語るを聞かず」の言葉が載っています。護王神社の主神は清麻呂公と広虫姫命です。神護寺境内にあった社殿を明治19年御所の守護神として現在地に移転。4月4日は護王大祭のいのしし行列があります。
いのしし神社のおはなし 奈良時代の末、法皇となって権勢をふるっていた弓削道鏡は天皇の位をわが物にしようと、「自分を皇位につかせたなら天下は太平になると宇佐八幡の神さまのお告げがあった」とウソをつきました。 天皇から御神託が本当にあったかどうか確かめてくるよう命を受けた和気清麻呂公は、九州の宇佐八幡へ行き御神前に「真意を示し給え」と叫びました。すると光の中から宇佐の大神が現れ、「天皇の後継者には必ず皇族のものを立てなさい。無道の者は早く追放してしまいなさい」と御神託を下されました。

都へ帰った清麻呂公は、このことを天皇に報告し、道鏡の野望を暴きました。しかし道鏡の怒りをかった清麻呂公は、大隅国(鹿児島県)に流されることになりその旅の途中、道鏡の放った刺客に襲われ足の筋を切られてしまいました。
一行が豊前国(福岡県東部)にさしかかった時、どこからともなく三百頭ものイノシシが現れ清麻呂公の輿の周りを護りながら十里(約40km)の道のりを案内し、またどこかへ去っていきました。すると清麻呂公を悩ませていた足の痛みも不思議となおっていました。
一年後、称徳天皇の崩御により道鏡が失脚すると、清麻呂公は都へ呼び戻され、晩年まで世のため人のために尽くしました。清麻呂公の立派な人柄とともに、彼を護ったイノシシのお話は、後世まで語りつがれることになりました。清麻呂公を祀る護王神社には、狛犬の代わりに狛イノシシが建てられ今も清麻呂公を護り続けています。
参考引用掲載 京都人権歴史紀行 護王神社パンフレット
写真 ro-shin