Pilgrim 東西南北巡礼記 :百舌鳥古墳群
2022-03-21T06:55:48+09:00
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関西の神社・仏閣・古墳など巡っています。
Excite Blog
古墳群 登ってみて(読売新聞より引用掲載)
http://pilgrimari.exblog.jp/241397544/
2022-03-21T06:55:00+09:00
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百舌鳥古墳群
特別公開するのは世界遺産「百舌鳥・古市古墳群」のうち、堺市内にある百舌鳥古墳群を構成する収塚・旗塚・長塚・寺山南山古墳の4古墳です。4古墳とも午前10:00~午後3:30まで、30分ごとに古墳に登れる時間が設定されていて職員による解説を聞くことができます。また、関連イベントとして各古墳、会場ではカードや缶バッジが配られ、集めることで景品がもらえるそうです。
詳しい古墳の説明はこのblogカテゴリーから百舌鳥古墳群を選んでいただければ見ることができます。
参考引用掲載 読売新聞3月21日より
写真 ro-shin]]>
河内大塚山古墳(大塚陵墓参考地)
http://pilgrimari.exblog.jp/240348806/
2020-05-27T08:45:00+09:00
2020-05-27T08:45:16+09:00
2020-05-27T08:45:16+09:00
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百舌鳥古墳群めぐり
☆墳丘長335m
☆前方部230m高さ4m
☆後円部径185m長さ20m 大阪府羽曳野市・松原市にある前方後円墳です。この古墳は百舌鳥・古市古墳群の中には含まれていません。宮内庁によって陵墓参考地とされています。古墳の規模は全国5位の巨大古墳です。実際の被葬者は明らかではありませんが、推定21代雄略天皇とされています。後円部にある埋葬施設は横穴式石室で、天井石は「ごぼ石」といわれる巨石です。 6世紀中頃から後半にかけて造られたもので、中世には丹下氏によって墳丘内に「丹下城」が築かれ、江戸時代には前方部に大塚村の集落が形成され後円部には天満宮が祀られました。しかし、大正14年に陵墓参考地となったので昭和初年には集落は墳丘外に移されました。めずらしいですね。古墳の上にお城や集落があったとは・・・
参孝引用掲載 松原市HP
写真 ro-shin]]>
「埴輪」っていったいなんだろう?
http://pilgrimari.exblog.jp/240284335/
2020-05-04T14:40:00+09:00
2020-05-04T14:43:40+09:00
2020-05-04T14:40:49+09:00
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百舌鳥古墳群めぐり
古墳から発掘されるものの中で、最も興味深いものは埴輪です。古墳の周囲に並べて飾られていました。円筒埴輪と形象埴輪(人形・水鳥・馬・鹿・船・家形など)に分けられます。人形埴輪は亡くなられた王が寂しくないようにとの思いからか、家形埴輪は、亡くなってからもこの家で暮らせるように・・・水鳥や船はその魂を天に運ぶため・・・とか様々なことが考えられます。また、王が亡くなられた時、おともの者が一緒に埋葬されたという説があり、人の代わりに人形埴輪を造ったとも・・・仁徳天皇陵からは人形(女子頭部・巫女の役割?)や家・水鳥・家・鹿などの埴輪が出土されています。堺市博物館にはVR(バーチャルリアリティー)や200インチの大型シアターがあり、空中撮影の古墳や埴輪など見ることができます。
〒590-0802 大阪府堺市堺区百舌鳥夕雲町2丁 大仙公園内
℡072-245-6201
参孝引用掲載 ザ・古墳群
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日本の古墳大きさランキング
http://pilgrimari.exblog.jp/240280659/
2020-05-02T17:53:00+09:00
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百舌鳥古墳群めぐり
ニサンザイ古墳1 仁徳天皇陵古墳(大仙古墳) 486m 堺市大仙町
2 応神天皇陵古墳(誉田山古墳) 425m 羽曳野市誉田
3 履中天皇陵古墳(石津ヶ丘古墳) 365m 堺市西区
4 造山古墳(つくりやまこふん) 350m 岡山市北区
5 河内大塚古墳 335m 羽曳野市恵我之荘・松原市西大塚
6 五条野丸山古墳 310m 奈良県橿原市
7 ニサンザイ古墳 300m以上 堺市北区百舌鳥
8 景行天皇陵古墳(渋谷向山古墳)300m 奈良県天理市
9 仲姫命(なかつひめのみこと)古墳(仲津山古墳)290m 藤井寺市沢田
10 作山古墳(つくりやまこふん)286m 岡山県総社市
11 箸墓古墳 280m 奈良県桜井市
(倭迹迹日百襲姫命やまとととひももそひめのみこと)
12 神功皇后陵古墳(五社神古墳)275m 奈良市山陵町
13 ウワナベ古墳 255m 奈良市法華寺町
14 平城天皇陵古墳(市庭古墳)250m 奈良市佐紀町
14 メスリ山古墳 250m 奈良県桜井市高田
16 仲哀天皇陵古墳(岡ミサンザイ古墳)245m 藤井寺市
17 祟神天皇陵古墳(行燈山あんどん古墳)242m 天理市
18 室宮山古墳(室大墓)238m 奈良県御所市
19 允恭天皇陵古墳(市野山古墳)230m 藤井寺市国府
20 垂仁天皇陵古墳(宝来山古墳)227m 奈良市尼ヶ辻
参孝引用掲載 ザ・古墳群
写真 ro-shin ]]>
なぜ百舌鳥と古市に古墳群がうまれたのか?
http://pilgrimari.exblog.jp/240279005/
2020-05-01T21:33:00+09:00
2020-05-01T21:33:36+09:00
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百舌鳥古墳群めぐり
日本史の中で最初の古墳が造られたのは3世紀半ばの頃で、奈良盆地東南部の倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)箸中大市墓(はしなかおおいちのはか)に治定されている「箸墓古墳」といわれています。箸墓古墳 それから五代にわたってこの地に墳墓が造られました。その後北上して奈良盆地の佐紀の地に移動し数代が築かれました。この間の百年を「古墳時代前期」と呼びます。そして生駒山を越えて新天地として大阪平野へと移動していきました。古市と百舌鳥の古墳は交互に造られています。
参孝引用掲載 ザ・古墳群
写真 ro-shin]]>
古墳にはどんな人が葬られていたのでしょう?
http://pilgrimari.exblog.jp/240276295/
2020-04-30T15:56:00+09:00
2020-04-30T15:56:19+09:00
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百舌鳥古墳群めぐり
五世紀前後の日本は倭(わ)国と呼ばれていました。
中国の『宋書』には南朝・宋に対して外交を活発に展開した5人の歴代「倭王」についての記録が残っています。
<倭の五王>
賛(さん)・珍(ちん)・済(せい)興(こう)・武(ぶ)のいずれかの王が葬られている可能性が高いことがわかっています。
賛・・・仁徳天皇陵古墳?または、履中天皇陵古墳?
珍・・・履中天皇陵古墳?または反正天皇陵古墳?ニサンザイ天皇陵古墳?
済・・・允恭(いんぎょう)天皇陵古墳 藤井寺市
興・・・安康天皇陵?奈良市 日本武尊(やまとたけるのみこと)白鳥陵古墳?
武・・・雄略(ゆうりゃく)天皇陵古墳?仲哀(ちゅうあい)天皇陵古墳?
この五世紀を中心に日本全国に前方後円墳が広がっていきました。巨大な古墳を築造するために、何百、何千という人を動かせる莫大な権力と支配力のある人間が葬られていると思われますが、確かなことはわかっていません。
参孝引用掲載 ザ・古墳群 堺意外史
写真 ro-shin イラストAC]]>
古墳にはどんな形があるの?
http://pilgrimari.exblog.jp/240274965/
2020-04-29T21:37:00+09:00
2020-04-29T21:37:30+09:00
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百舌鳥古墳群めぐり
<前方後円墳>
上部の円い方が後円部、下部が前方部
前方後円墳は真上から見るとカギ穴の形に見えます。円と四角を組み合わせたものです。円墳の周りに濠を作って行くうちに、橋となる道筋を残しておくために、その橋のようなものがだんだんと太くなって行ったという円墳とくっついて前方後円墳となったという説が有力です。古墳の多くは周りに濠がめぐらされています。これは古墳の土を盛り上げるために掘ったあとに、雨水などが溜まって濠ができたと考えられています。御廟山古墳
<帆立貝形古墳>
帆立貝のような形ですが、実際はくずれて円墳のようになっています。古墳は真上から見た形ですから地上ではよくわかりません。 収塚古墳かぶと塚古墳
<方墳>
<円墳>狐山古墳
百舌鳥・古市古墳群の89基は、すべてこの4種類に分けられます。
参孝引用掲載 ザ・古墳群
写真 ro-shin
イラスト イラストAC「さつき」様ほか]]>
百舌鳥古墳群にはおもしろい名称がいっぱい
http://pilgrimari.exblog.jp/240254289/
2020-04-19T17:16:00+09:00
2020-04-19T17:16:43+09:00
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百舌鳥古墳群めぐり
百舌鳥古墳群は主に五世紀に築かれました。巨大な古墳から小型の古墳まで100基はありましたが、そこに葬られた人物の名前はほとんどわかっていません。宮内庁が祭祀・管理する古墳は「何何天皇陵」としていますが、学問的ではないとされています。昭和40年代に堺市教育委員会の文化財担当技師が江戸時代の資料や地元の古老から聞き取りして、名付けたものです。たとえば、狐山塚は狐がいたからとか・・・古墳の地主の名前とか・・・いたすけ古墳は今でも狸が住んでいて顔を見せるようです。 被葬者がわからないのは墓碑などが古墳から出土しないからです。大きな前方後円墳でさえ見つかりません。古墳時代の墓に対する考え方が現代のとはまったく異なっていたかもしれません。墓というよりも、後継者が権力を継承するモニュメントとして、古墳を築いた後継者の実力・政治力・経済力・技術力を内外の人に見せつけたのかもしれません。今までUPしたものを見ていただければおもしろい名前の古墳があります。
参孝引用掲載 堺意外史100話
写真 ro-shin]]>
ドンチャ山古墳と正楽寺山古墳
http://pilgrimari.exblog.jp/239923408/
2020-01-01T11:23:00+09:00
2020-01-01T11:23:32+09:00
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百舌鳥古墳群めぐり
☆円墳
☆直径約26m
☆六世紀前半以降 ニサンザイ古墳からほど近い「綾南中央公園」の中に小さな古墳があります。埴輪や須恵器が出土しています。ドンチャ山の名前の由来はわかっていません。
正楽寺山古墳
☆円墳
☆直径約15m
☆六世紀前半以降埴輪は見つかっていませんが須恵器が出土しています。名前は正楽寺という寺名から来ているのかも知れません。
参孝引用掲載 ザ・古墳群
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万代山古墳と高林家住宅
http://pilgrimari.exblog.jp/239917812/
2019-12-30T14:45:00+09:00
2019-12-31T13:56:02+09:00
2019-12-30T14:45:51+09:00
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百舌鳥古墳群めぐり
☆円墳(または帆立貝形)
☆径25m、高さ4.3m、
☆築城時期不明
御廟山古墳の北側にあって御廟山古墳の陪塚といわれています。現在は、日光教本部内、神社の裏手にこんもりとしたお山があって、こちらの神社の御本体となっています。古墳上には神さまが祀られています。戦時中に一時、ここが陸軍の宿舎となって防空壕を作ろうとしたところ、大きな石に当たって工事ができなかったと伝わります。これが石室の石だったのかも・・・
高林家住宅(たかばやしけじゅうたく)
「旧堺」エリアには「山口家住宅」のように京都や奈良でもなかなか見ることのできない17世紀の日本家屋がありますが、「高林家住宅」は天正年間(1573~92)の築造。しかも現役の住宅です。かつて高林家は庄屋を束ねる「大庄屋」だっただけあって家の規模も造りも、町家と呼ばれるものとは全く違います。重要文化財に指定されていて、通常は非公開です。
細い路地に「天満宮」がありました。百舌鳥八幡宮の近くです。
参孝引用掲載 ザ・古墳群
写真 ro-shin
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御廟山古墳(ごびょうやまこふん)
http://pilgrimari.exblog.jp/239915687/
2019-12-29T16:53:00+09:00
2019-12-29T16:53:14+09:00
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百舌鳥古墳群めぐり
☆前方後円墳
☆墳丘長203m、後円部径113m、前方部最大幅136m
☆五世紀前半 前方部は西向き、昭和20年に行なわれた宮内庁と堺市による発掘調査によると、古墳の規模は百舌鳥古墳群で4番目の大きさといわれています。墳丘は三段に築かれていて、南側のくびれに造出があり、第一段のテラスには高さ75cmの円筒埴輪がすき間なく並べられていて、このうち3本に1本は朝顔形埴輪だと考えられています。 百舌鳥八幡宮は欽明天皇(532~571)の頃に建てられました。この神社の西側にある御廟山古墳は、その昔、八幡宮の奥之院として祀られていました。前方部の濠の対岸に「永尾大神」が祀られています。 この古墳からは様々な古墳が出土しています。中でも特に珍しい「入れ子」(案内板の下方の写真)
参孝引用掲載 ザ・古墳群写真 ro-shin
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文殊塚古墳
http://pilgrimari.exblog.jp/239668589/
2019-10-19T14:09:00+09:00
2019-10-19T14:09:06+09:00
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百舌鳥古墳群めぐり
☆前方後円墳
☆墳丘長59.1m後円部直径36.3m前方部幅27.3m高さ4m
☆五世紀JR上野芝駅南東にあります。周囲には水をたたえた濠はありませんが、後円部側(東側)のみに掘割りがもうけられています。五世紀の須恵質の埴輪が出土しています。
参孝引用掲載 ザ・古墳群
写真 ro-shin]]>
経堂古墳とかぶと塚古墳
http://pilgrimari.exblog.jp/239663297/
2019-10-17T13:38:00+09:00
2019-10-17T13:38:30+09:00
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百舌鳥古墳群めぐり
☆円墳
☆直径20m
☆築造時期不明(五世紀前半?)
☆堺区南陵町
宮内庁によって履中天皇陵古墳の飛び地い号と指定されています。履中古墳からは少し離れていますが、陪塚といわれています。
かぶと塚古墳
☆帆立貝形古墳
☆墳丘長50m、後円部直径42m、前方部幅23m
☆五世紀
☆西区上野芝塀に囲まれて入ることができません。現在は前方部だけが残っています。大塚山古墳(現存せず)の陪塚といわれています。
戦後の復興とともに住宅開発が盛んになり、その結果古墳の多くが削られて、さらに1985年の宅地造成によって完全に姿を消してしまった古墳が上野芝にあります。古墳の規模は古墳長168m、現存していれば百舌鳥古墳群の中でも5番目の大きさ。戦後に破壊された前方後円墳の中では最大のサイズだったそうです。当時は古墳を文化財として守るという意識が低かったそうです。残念ですね。
参孝引用掲載 ザ・古墳群
写真 ro-shin]]>
ニサンザイ古墳
http://pilgrimari.exblog.jp/239649345/
2019-10-11T12:48:00+09:00
2019-10-11T12:48:17+09:00
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百舌鳥古墳群めぐり
☆墳丘長300m・後円部径約170m・高さ24.6m・前方部幅約224m高さ約25.9m
☆五世紀後半前方部北西角から撮ったもの。鍵穴の形(Keyhole-shaped tomb)教科書や案内図には円い部分(後円墳)が上に来ていますが、前方部に天皇が祀られています。これは円い部分です。ニサンザイという名称に「どうしてこの名がついたんだろう?」と思いました。これは「ニサンザイ」=「ミサンザイ」=「ミササギ(陵)」の転訛したものと考えらえているそうです。埴輪がお出迎え。御陵山公園になっています。
参孝引用掲載 ザ・古墳群
写真 ro-shin]]>
鎮守山塚古墳(ちんじゅやまづかこふん)光明院
http://pilgrimari.exblog.jp/239349475/
2019-07-04T14:30:00+09:00
2019-07-04T14:30:36+09:00
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ro-shin
百舌鳥古墳群めぐり
お寺の中の古墳
残念ながら外からは見ることができません。ここから円筒埴輪、蓋形埴輪、動物形、家形の埴輪が出土されたそうです。
☆円墳
☆直径34m
☆五世紀中頃 この寺は仏頂山金輪寺光明院といい、高野山金剛峰寺に属しています。天平元年(729)光明皇后の発願により創建。中世には当寺の僧が先達となって熊野本宮へ詣でた記録があります。
江戸時代前期の寛文九年(1669)に寿宝比丘尼智海が当寺を再興、江戸時代中期に大鳥神社神宮寺である神鳳寺の役寺(やくじ)となりますが慶応四年(1868)神仏分離令によって神鳳寺は廃寺となり釈迦三尊や十一面観音立像(堺市指定有形文化財)をはじめ仏像や仏画の多くが当寺に移され現在に至っています。寺内にある地蔵堂には頭守地蔵が祀られ、頭痛、中風除けとして参詣されています。参孝引用掲載 ザ・古墳群
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