法語=仏心者大慈悲是以無縁慈摂諸衆生大阪府八尾市垣内4-41℡ 0729-41-0550

元善光寺縁起で語られている本尊善光寺如来は秘仏で年二回の御開帳でしか拝観できない為その代わりの弥陀三尊がミニチュア版のように扉の前に前に祀られています。御前立ちと呼ばれ、秘仏を祀るお寺では皆そのようにされています。
おつやとは仏像にこもって終夜祈願することですが、ここでは本田善光が借宿をして夜通しおつとめをしたのが縁起になっておつや法要と、翌日の秘仏本尊御開帳がはじまったということです。
四月十六日 おつや
四月十七日 御開帳
九月十六日 おつや
九月十七日 御開帳 以前は盛大に行われていましたが、今は十六日に夜店がでるとのことです。



元善光寺誕生物語 この国に仏教が伝わって間もない頃、仏教派と反対派が相争うなか、大和橿原の向原寺で仏さまが祀られました。
その後まもなく、国中に疫病がはやり、それを「見た事か!」と在来の神様をあがめる反対派が勢いづき戦いが起こり、反対派が勝利しました。
彼らは、この仏様を放置しているとまた誰かがどこかで祀るだろうと恐れました。
そこで仏さまを七日七夜、鉄をも溶かすたたらにかけたのですが、閻浮檀金という金属で作られた仏さまは溶けません。
それならと今度は難波の堀江という池に沈めてしまいました。後にこの話を聞いた聖徳太子が
「もったいない、私がお救いしよう」 としたところ
「今あなたに拾われるより、後にもっと因縁の深い人に拾われるからこのままに」
という仏さまの声が聞こえました。
ある時信州から主人の都仕えのお供で大和に来ていた本田善幸という人がこの地をお参りにまわっていて、堀江の池の端を通ったとき背中が急に重くなりました。
あの仏さまが背中へ移られたのです。信心深い彼は仏さまを背負い信州に帰る事にしました。
途中、信貴山の毘沙門天にお参りした後高野街道出るところで日が暮れ、一軒の農家に宿を借りました。農家の人は仏さまを見て是非ここで祀らせてくださいと頼みますが叶わず、近所の人もともに頼みました。すると翌朝なんと、仏さまが二体に分身されていたのです。
こうして善光は信州に帰り、この仏さまをお祀りして大きく育ったのが今の善光寺です。
ずっと後、本田善光はお祀りしている仏様の分身をお参りしたいと再びこの地を訪れます。
その折、道々ついてきた生木の杖を
「本当に仏さまがここに心地よくおとどまりになるなら芽のでますよう、そうでなければ枯れますように」
と念じて地面に突きさしました。するとそこから楠の芽が出てきて大木に育ったのです。
また、仏さまのお供えに柿と梅の木を持ってきたのも接木を重ねながら伝えられてきました。小さな実のなる「信濃柿」と青梅が一年中色も変わらず落ちないというめずらしい「不断梅」
この寺で、楠とあわせて「三名木」と呼ばれるものですが、残念ながら不断梅は台風で根元から倒され枯れてしまい今は見る事はできません。
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難波堀江の池とは、和光寺にある「あみだ池」のことです参考資料(河内西国巡礼)